食事の前にお祈りをしたら、若い人に笑われてしまった。
「それ、昔のですやん!今はそないなお祈りしてまへんでw」
Wikipediaで「主の祈り」を調べると彼女の言うとおりだった。2000年に文語訳から口語訳に変更されていた。新しい「主の祈り」は、日本カトリック教会公式とのこと。衝撃だった。
というわけで、「主の祈り」の昔と今を比較してみる。
昔の「主の祈り」
天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨(みむね)の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
アーメン
今の「主の祈り」
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖(せい)とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
アーメン
昔と今を比較してみて
内容は「神様ありがとう、わたしもがんばるわ!」と同じ。違いは訳し方だけだ。比較するとたしかに今の口語訳の方がわかりやすい。
しかし、この新しい今の「主の祈り」、昔の「主の祈り」派としては、どうにも受け入れがたい。文語訳の何言ってるかわからない感じがいいのに、なんでもかんでもわかりやすく口語訳にすればいいというものではないのに、と言おうとして思った。
これが、老害ということか。自分も変化を受け入れられない老人になりつつあるようだ。
まぁいいや。いずれにしても、今の「主の祈り」をすることはないだろう。引き続き、昔の「主の祈り」でいこう。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。