親父が亡くなり五回目の春。淹れたての珈琲をお供えした。もちろん好みは分かっている。ミルクもクリームも入れない、砂糖もなしのブラックで。
かつて、親父に訊いたことがある。
「ブラックなんて飲んで美味しいの?」
「大人になったらブラックなんだ」
即答だった。
癌を患い、余命わずかとなった親父。告知はしなかったがもう最期だと分かっている。ホスピスの病室で二人きりになったとき、ひとつのお願いをされた。
「おい、珈琲を頼むよ」
口を潤す程度の水しか許されていないのに、珈琲を所望された。
「うん、わかった」
急いで下の売店に買いに行き、すこし高めの自販機「ミル挽き珈琲」に硬貨を投入した。そしてブラックのボタンを押す。最後の珈琲ならもっと旨いやつを、とも思ったが、医者にばれないようにこっそりと。
珈琲を手に病室に戻ると、親父は嬉しそうな顔をした。
こっちも嬉しくなるが、誤飲すると死ぬかもしれない。珈琲で父親を殺した息子、と新聞の一面が頭をよぎる。しかし親父の最後の願いだ。覚悟を決めて口元に珈琲を持っていく。
ゴクリと飲むことはできず、ほんの少しだけ。
親父は満足そうだった。
約束を破った二人の間には充足感があった。
しばらくして親父は逝った。
どうせ死ぬのなら最高に旨い珈琲を飲ませてやりたかったな。その後も何度か思った。
「美味しいブラックだよ」
仏前に備えた珈琲、嬉しそうな親父の顔が目に浮かぶ。
自分用のブラックを口にする。やっぱり、親父に言っておこう。
「親父、やっぱり珈琲はブラックよりも、牛乳と砂糖をいっぱい入れたほうが美味しいよ!黒い豆の汁なんて、そのまま飲んでも苦いだけだよ!」
大人になるには、まだまだ修行が足りないようだ。